文芸楽曲

僕は、幼い時から身の回りに文芸や楽曲に触れる機会が多くあったと思う。ソースはうちにあった母親の持っていたものがほとんどで、本棚には近代文学史に出てくる著名な作家はほとんど揃ってたけど、あまり深入りしたことはなかった。興味のあるものだけ手にとってみて、純粋に面白いと感じられたのは芥川くらい。海外の古典文学もたくさんあったけど、あれ洋書って翻訳の精度で面白さガラっと変わるし、作家の母国語を理解しないと本当の良さはわからんと思ってた。でも推理小説は断然海外のほうが面白い。翻訳に労力使ってたんだろうなと感じる。

家の中にレコードプレーヤーとラジカセが大小2~3台ずつくらいあって、音楽系はカセットで揃えてあって、ビートルズのシングルベスト盤をかなり聴いた。サイモン&ガーファンクルは親父が車でよくかけてて僕も好きで聴いてた。レコードで揃ってたのは、日本昔話とかアニメの音声盤とかで今思うと、うちの母親は絵本の読み聞かせとかほとんどしない人だったので、レコードに読み聞かせ代行させてたんじゃないかと、今思うとそれでよかったけどな。ただ、母が毎朝ヘビロテしていた、さだまさしの第三者って曲はトラウマになるくらい聴かされて未だまともに向き合えない曲になってる。

この記事タイトルの「文芸楽曲」っていうのには当然思いがあって使ってるんやけど、僕は「文学」と「音楽」っていう言葉の響きや意味合いとか表現のしかたが大嫌いで、自分がやろうとしてる事も毛頭そんな単語で語る気にならんし、「音楽家」と「文学者」を肩書きにしてる人とは一生相容れんやろうし、元々興味が湧かない人たちなんで参考にしないし参照もほとんどしない。個人的な感情と思いだけの話やけど。とはいえその「音楽」や「文学」に多小なりともどっぷり浸かってたこともあるのは事実。

僕が若い頃から創作してる「文芸楽曲」も、いわゆる音楽リスナーにとってはゴミみたいなものにしか映らんと思うし、文壇の方々には子どもの作文程度の文字の羅列にしか見えんやろうし。僕自身そんなに大した芸術作れてるとも思えないし、それでも自分の作ったものには愛着あるけど、決して人々を突き動かすようなインパクトは無いように思う。じゃあまるでダメやん、といわれればそうなんやけど。

自分の中のイメージコピーとして、人々にとってゴミみたいな作品をどんどん撒き散らして、とにかく今まで聴いた感がなくてでもどこかで知ってるような理解し難い文芸楽曲をパフォーマンスして、音楽リスナーや文学畑の人々のトラウマになるまで脳裏に焼き付けたい。ちょうど僕にとっての、さだまさし三者のように。