性別における表現の違いはどうしてもある

踏み込んだ物言いになるけれど、女として表現していることと男としての表現では当然違うものになるという前提で語りたいのが、楽曲パフォーマンスにおける性別需要があるという事実。

僕は基本的に男性のパフォーマーを好んで聴いているし、共感を得られるのも男としての表現だからこそで、仮に同姓愛者がパフォーマンスしていても、男としての表現を見てとれるなら、そこになんら抵抗なく受け入れられる。偏見でもなんでもなくゲイの表現力は凄まじいものがあるし、パフォーマーの性嗜好がなんであろうと、楽曲の表現パワーにおいては、良いものは良い理論がすんなり通ってしまうところがある。

単純に、そのパフォーマンスに対して自分の中にある衝動や感情を重ね合わせられるかどうかで、聴ける聴けない判断しているわけで、トランスジェンダーの素養が少ない僕にとって、男性のパフォーマンスは遺伝子的にとっつきやすい。

女性の楽曲パフォーマンスが大方、ほぼ響いてこないのも当然といえば当然で、僕その気持ちわからんもん!というのが本音で。

しかしながら、僕の中で若い時から現在まで圧倒的にずっと輝きが失われない女性パフォーマーが「ローリン・ヒル」本当にずっと聴いてる。

前言を覆すようだけど、ローリン・ヒルのパフォーマンスは常に100%以上共感できるし、いつ聴いても観ても魂を揺さぶられるのは間違いない。一時、パフォーマンスから遠ざかって声が出ないとか質が落ちた時はあったけど、最近またかつての艶を取り戻すまではいかないにしても、大分戻してきてる感はあるし観れるようになってきた。

でも、最近のステージに自分の末娘引っ張り出して歌わせたりしてるのは全く共感できないし、そこは母性全開でがんばれ~っていう以上に感動したりしない。だってそこほんまわからんし。

フージーズがブレイクした96年に”ウ・ラーラーラー”て歌ってるPV観た時は、そんなに心動かされたワケじゃないけれど、圧巻だったのはライブ映像。あの時期なら、どの動画でもいいけどライブパフォーマンス初めて観た時、度肝抜かれた。ひとことで支配的っていうやつ。バンドでやってるパフォーマンスを、声と動きと間で、完全に自分のステージにしてしまってる。ワイクリフの派手な動きも添え物程度にしか見えんし、ローリンの切れ味こそがステージを創ってる。

バンドを意図的にそうやって売り出していった部分もあったんだろうけど、ソロデビューしてからがまた神懸かってて、アルバム2枚しか出てないけどほんとエヴァーグリーンていうやつ。

「アンプラグド2.0」で号泣しながらやりきった"I Gotta Find Peace Of Mind"とかいつ観ても震える。サビで歌ってる内容が「彼はもう無理だと言うけど私はそう思わない、彼を忘れるにはどうすれば」とか完全に男との私的関係をダラダラ歌ってるだけなんだろうけども。

なぜこんなにローリンヒルに入れ込んでしまうのかというと、ひとつにローリンが非常に男性的な感性を持っていて、そこが見事に表現昇華されているからだと感じる。ゲイでもいいものはいい、女でもいいものはいい、ということになると性別需要とか関係あらへんがな!

しかし、僕の中では一貫していることがあって、僕自身が異性に対して感じることやその思い入れとか拘りなんかが、共通の視点をもたせてくれるよう楽曲に表現されていれば、心を掴まれるわけで。

ほとんどの女性パフォーマーからは、その視点を感じることが無くてそれこそ女と男の感性の違いかなって思うんだけど、いつまでも相手に未練タラタラ表現の楽曲を涙しながら歌うローリンにとても共感してしまうのは、やつが完全に男目線だからか?そういえば「アンプラグド2.0」の曲間のベシャリでも、男子に間違えられる件あったし本人も自覚してるんだなと納得。

政治思想は人を支配する枠組み 芸楽は人を豊かにする仕組み

芸術に政治を持ち込む云々、とは以前からメディアでよく目にする言葉だけど政治と芸術って全く相容れないというか、対極にあって相反するもので、タイトルの通り目的が違うから一緒にできるはずがないだろうに。

60年代安保の昔から、昨今の法案改正への抗議行動とか、それに関する学生運動とその時代の音楽をリンクさせたりしたプロモーションがあった場合に、よく文面にされる”音楽に政治を持ち込んで・・”とかの文言を見るたびに、「あ~また残念ながらの表面的な紹介文やな」と、本質から見つめる事を逃げてる人達との距離を計りながら、「そもそも抗議デモとか学生運動の類は政治ちゃうやろ」と一人突っ込んで「まあ音楽ってのも嫌いやしどっちもどうでもええな」と、これまで一人納得して流してきた。

僕は音楽家には興味ないし「自分の表現は文芸楽曲」とこれからも表明しつづけるのでそこは切り離して考えるけれども、政治については自分を取り巻く環境に関わってくるので、注視し続けてきたしこれからも一生ついて回るテーマだと思ってる。

政治思想とは、不特定多数の民をその思想の元に縛り支配し続ける枠組みであって、それ以上でも以下でもないし、政治思想の領域へ踏み込んでいくことはつまり支配層へ参加していることに他ならない。別にそれを糾弾するつもりもないけれど、政治思想に関わってる人達ってなんか理想郷を目指しているように見えるんだけども。

実際の政治家っていうのは、どうやって効率よく民を支配していけるかと日々研鑽に励まれている高尚な方々で、ユートピアを現世に打ちたてよう!とかその類の幻覚症状を掲げて活動している人はいないわけで、しかしその政治家先生を支える人達ってのが、ほとんど幻覚と現実の区別がついてないような人達ばっかり。

学生運動とか抗議デモを行う人々または政治家を支援擁護する人々は、政治活動を行っていない。したがって音楽家とつるもうが、画家と一緒に個展をやろうがどうぞご自由にであるし、政治と全く関係のない行動であるのも一貫している。政治を行っているのは政治家先生と官僚様のみ。だから僕ら一民が政治に干渉する余地なんてこれっぽっちもないし、政治と芸術をかけあわせるなんてできるはずがないんだと。はっきり認識しておきたい。

選挙っていう形式だけの行動選択があるけれど、現実は無効力の形骸化した儀式みたいなもの。ほんとの民主主義ってあった試しがないんだから、選挙なんか初めから全部決まってるってこと。僕自身は投票があれば、なんであれ必ず行ってるんだけれど。僕らに選挙権はあっても政治に関わる権利は一切無い。

では、芸楽に携わる人々は何を表現しているのか?おそらくほとんどの芸術家は、政治思想に支配された民の代弁者として表現活動を行っていると思う。

いっぽう、支配層に取り込まれた”音楽家”や”文筆家”とか”アーティスト”の類はたくさんいると思うが、それらの人々が行っているのは「芸術」ではなく”広告”なんだと思う。

そろそろ楽曲と文芸を創作してアップしたくなってきた

日々雑念と抗うことで消耗しきっている40おじさんやけど、自分にとって本題の楽曲をあげていこうと決めた。こう宣言しないとモチベーションが保てないところがあって、有言実行ベースで生きてきた以上こうしとけばやらざるをえんように自分を追い込めると思った。なのでこのブログスタートしたっていうわけでもある。

トラブルばっかり続いて金がとび、時間を奪われの繰り返しをしつこくリピートする日々に言い訳の余地をもたせてたのも事実。ここらへんでばっさり自分の甘さを切り落としていかないと、最近どんどん闇にはまっていく傾向がはっきりしてきた。実際、一歩間違えばシャレにならん事態が続いてて、紙一重のところで首の皮一枚セーフ的な状況が連続して起きてるし。

あまり使いたくない言葉やけど「持ってる」んよな、生まれつき。なんか必要以上にいろんなものを引き寄せてしまって、背負い込んでしまう性分なのか、自分の意思とは別の何かが働いている感じ。

平穏に生きていくのは無理やねんなー、この性格では。自分からトラブルに突っ込んでいって招き寄せてるところもあるな、と自覚してるしむしろその状態を無意識に作ろうとしてるのかもしれない。

不安定な状況にこそ生きた心地がしてて、そこから抜け出そうとしてまた戻るという繰り返し。病気やねこれ間違いなく。

その病んでる精神を表現したいという思いが年々強くなってきてて、それがこの年になってやっとできるようになってきたところもある。若い頃は、その病んでる自分と向き合う事ができなかったし、自分のそういう側面が怖い部分もあった。

でも、もう今さら隠す事も臆すことも無く、病んだ自分を認められるようになったし、これは時間が解決してくれたな。若い時にやってたら確実に自己崩壊してたと思う。

誰もやってないこと、誰も見向きもしないようなもの、誰もが蓋をしたがる表現、そんなことをやりきりたい。ま、過去にそういうことを成し遂げてる人はいっぱいいるけど。そういった人達の大ファン。

人生は絶望の連続 希望は人をただ生きながらえさせる中毒剤

今日、仕事中になかなか絶望的な出来事があったからこそ、タイトルのように思い込んだわけで、哲学的な気分に浸ってるわけではない。

思えば、自分のこれまでの生い立ちからも記憶を辿っていくと、それはもうほぼ希望に満ちていた時期など皆無だったと、改めて実感するし、あったとしてもほんの瞬間だけなんだな、あれは良かったな!と思えたり、これからの人生に希望を見出したりした時間って。

あの時はしんどかったな、がむしゃらにやってたな、ひたすら無駄話に明け暮れたな、とかアマちゃんだった、無知だった、何も残せてなかった、とか思い出すのは焦燥感や絶望感に溢れた思い出ばかりが蘇り、美しく素敵だった思い出などほとんど出てこない。

僕個人の現実は、その気持ちしかリアルな感覚として持ててないし、家族や身内の彼らが今までどう思っていたり感じたりしていようと、僕はその思いをずっと抱えている。

絶望がベースにあって、時にはそこから這い上がったり引き上げられたり上手く階段を駆け上がったりして、わずかに希望を見出す一刻があるけれど、原点は変わらないし、変えようとしたことがない。

昔はそういう自分がダメなんだと、苛まれた時期もあった。これに耐えられなくなったら、もう人生チェックメイトだなと、終わらせれば楽になるのかなとか、考える時期もあった。

最近は年のせいもあってか、絶望とうまく付き合えている気がしていて、むしろ絶望こそがエネルギーの源泉なのかもしれないと思うようになった。

だって今までね、このままじゃヤバいわ何か新しいこと始めよっ!て思って色んな事に手つけてきたけど、それぞれのきっかけって全てそん時の現状に絶望してたからこそ、その現状から逃げる為に次の何かをやり始めてたって事に気付いたから。

つまりずっと逃げ続けてきたんだと、現実に向き合えずその場しのぎでいろんなものを捨ててきたのかなって。で、人生も折り返し地点を過ぎてようやく、そろそろ捨てていくのはヤメようというか、捨てるものが無くなってきたのかな。なんせ残してきたものが無いから(笑)

絶望を源泉に生き抜いていくって、どういう心境だろうと昔は想像もつかなかったけど、今まさにその心境で落ち着いてる自分がいるし、リアルに生きるってこういうことかと。

夢見心地で来たんだね今までずっと。

今さらながら民主主義は存在しない

連休中さっそく投稿落ちまくりで、つくづく自分の継続力の無さを実感したこの数日、家族サービスに全力投球といっても言い訳にしか見えないのが、インタネットサービスの過酷なところ。

記事を書かないうちに考えられる事も色々あって、今日のテーマに至ったわけなのがついさっき帰宅中に思いついたんだけれども、ほんとにチャンスって限られてるよな人生において。

チャンスってのは、天から降ってきたようなそれがたまたま自分の頭上にドンピシャで降りてくるような瞬間のことを指してるんだけれど、まあこないね。待てど暮らせどね。

テーマに沿ってちょっとウィキってみたら、こんな立派な記事があった。寡頭制 - Wikipedia

うーん、僕の言いたい事がほぼこのリンクの内容で網羅されてしまってるので、いちいちここで言及するのが恥ずかしくなってきた。

とはいえ、若い時からなんとなく思い描いてたことが本当にそうだったんだなと実感したこの数日でもあった。

いいたいことをまとめると、僕らの住んでいるこの世界は今も昔も、上記リンクのような作りになってて、少数の支配層が世の中を動かしてる中、僕ら民達は、ほんの降って湧いたチャンスに一喜一憂して生かされていると。少数の支配層からすると当たり前に手に入るものなんだけど、僕らにとって当たり前ではないもの、それこそがチャンスだと。

その漠然とした本質に気付いた人々がいて、能動的に行動を興しチャンスを我がものにしたりするといつのまにか、その少数側の層に仲間入りしてたり。いわゆる成功者っていうやつになると、かつていち民だった頃の思いは母親の胎内に置いてきたのか、完全に支配者の顔になってるという構造。

自分の思いは、その状況に対して憤るも焦るもなく、ただその現実を受け入れるしかなくて、これからますます自分で自分の歩む道を切り開いて進むしかないだろうと決意改めるのである。

休日前に長女と長男の将来について

休日前なにをするかといえば、できるだけ仕事をたくさん片付けておくということ。そうすれば、休日に子どもらのサポートに集中できるし休み明けもほげ~っとした状態で出勤できるし。

だけどそろそろ、うちの子らも将来設計を描くような年頃になったようで、2年後には吐きそうなくらいお金の用意しないといけなさそうだし、そんな金今からじゃ全然間に合わんし方々から借りるしかなさそうで自分の将来は漆黒の闇へとまっしぐら。

そこに一筋の光明を見出そうと、この年になって重い腰あげてセカンドライフワークを模索しているわけなんだが、すぐに金にならなくていいし借金1千万くらい背負い込んでも、成し遂げてやろうじゃないかと覚悟を決めた休日前でもある。

しかし、こっちがその気でも当の本人達はお気楽なもんで、将来なんてどこ吹く風今日は明日の、明日は明後日の台風が低気圧に変わってやってくるといった様子。要はまったく危機感ゼロってこと。

二人とも現在のクラブで準レギュラーくらいの位置は確保しているつもりのようではあるけど、今そんなんでこの先あると思うなよと言いたいところなんだけど、ぐっとおさえて見守っている。

なんでこうもっと努力しないかなーと腹立たしいのもつかの間、結局努力できる事自体が恵まれた才能であるし、ああやっぱりうちの子達はそこまでじゃないんだなと早くも見切りをつけてる自分もいる。

そもそも僕自身継続する力が乏しく、そこを鍛える為にもこのブログ始めたようなもんだけど、なんせ僕の子らやし、そらそんなに努力せんわな。とするとうちの子らには継続する力を養ってやればいいのかなとわかりかけた休日前でもあった。

文芸楽曲

僕は、幼い時から身の回りに文芸や楽曲に触れる機会が多くあったと思う。ソースはうちにあった母親の持っていたものがほとんどで、本棚には近代文学史に出てくる著名な作家はほとんど揃ってたけど、あまり深入りしたことはなかった。興味のあるものだけ手にとってみて、純粋に面白いと感じられたのは芥川くらい。海外の古典文学もたくさんあったけど、あれ洋書って翻訳の精度で面白さガラっと変わるし、作家の母国語を理解しないと本当の良さはわからんと思ってた。でも推理小説は断然海外のほうが面白い。翻訳に労力使ってたんだろうなと感じる。

家の中にレコードプレーヤーとラジカセが大小2~3台ずつくらいあって、音楽系はカセットで揃えてあって、ビートルズのシングルベスト盤をかなり聴いた。サイモン&ガーファンクルは親父が車でよくかけてて僕も好きで聴いてた。レコードで揃ってたのは、日本昔話とかアニメの音声盤とかで今思うと、うちの母親は絵本の読み聞かせとかほとんどしない人だったので、レコードに読み聞かせ代行させてたんじゃないかと、今思うとそれでよかったけどな。ただ、母が毎朝ヘビロテしていた、さだまさしの第三者って曲はトラウマになるくらい聴かされて未だまともに向き合えない曲になってる。

この記事タイトルの「文芸楽曲」っていうのには当然思いがあって使ってるんやけど、僕は「文学」と「音楽」っていう言葉の響きや意味合いとか表現のしかたが大嫌いで、自分がやろうとしてる事も毛頭そんな単語で語る気にならんし、「音楽家」と「文学者」を肩書きにしてる人とは一生相容れんやろうし、元々興味が湧かない人たちなんで参考にしないし参照もほとんどしない。個人的な感情と思いだけの話やけど。とはいえその「音楽」や「文学」に多小なりともどっぷり浸かってたこともあるのは事実。

僕が若い頃から創作してる「文芸楽曲」も、いわゆる音楽リスナーにとってはゴミみたいなものにしか映らんと思うし、文壇の方々には子どもの作文程度の文字の羅列にしか見えんやろうし。僕自身そんなに大した芸術作れてるとも思えないし、それでも自分の作ったものには愛着あるけど、決して人々を突き動かすようなインパクトは無いように思う。じゃあまるでダメやん、といわれればそうなんやけど。

自分の中のイメージコピーとして、人々にとってゴミみたいな作品をどんどん撒き散らして、とにかく今まで聴いた感がなくてでもどこかで知ってるような理解し難い文芸楽曲をパフォーマンスして、音楽リスナーや文学畑の人々のトラウマになるまで脳裏に焼き付けたい。ちょうど僕にとっての、さだまさし三者のように。